日本伝統文化

日本伝統文化
日本の伝統文化を写真で解説します

書院造

書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代中期以降に成立した住宅の様式である。その後の和風住宅は、広い意味で書院造の強い影響を受けている。

特徴
書院造は、床の間(または押板)、違い棚、付書院という座敷飾りを備えたものである。今日の宴席でも、しばしば床の間の位置によって「上座」「下座」などと座席位置が決められることがあるが、これは床の間との位置関係が身分序列の確認を促す役割を果たしていたことを示していると言えよう。


書院造の成立
書院はもともと禅僧が書を読むために室内からはり出し、床板を書見のための机とし、前に明かり障子などを設けたものであった。また、押板(床の間の前身)や違い棚は、書画、置物などを飾る場所として造られてきた。

これらが集約された例として、足利義政が慈照寺(銀閣寺)の東求堂に造った書斎、同仁斎が建築史上有名である。これは四畳半の小さな一間であるが、付書院と棚を備え、畳を敷き詰めたもので、現在まで続く和風住宅の原型とも考えられる。
室町時代後期には、寺院の書院や武家住宅に押板や棚、書院を備えるものが造られるようになり、次第に書院造の形式が整えられていった。

書院造が、身分序列を確認する装置として完成されたのは安土桃山時代の城郭建築であったと考えられる。信長の築いた安土城、秀吉が建てた大坂城や聚楽第には狩野派による華麗な壁画が描かれ、権力者の威勢を示すものであった。ただし、これらの遺構はいずれも現存していない。

現在に残る遺構としては三代将軍徳川家光によって建てられた二条城二の丸書院が著名である。これは将軍が対面を行う場所であり、将軍、諸大名の席次が厳格に定められている。将軍の座る上座は押板、棚、書院、帳台構(武者隠し)によって荘厳されており、また下手から見ると床面が徐々に高くなり、上座は折上格天井という格式の高い造りになっている。


書院造の普及
江戸時代には庶民の住まいに床の間は贅沢であるとして統制が加えられていたが、名主相当の有力者の場合(代官を自宅に迎えるような場合)、床の間を許されたものもある。このような座敷飾りが、さらに村落内での権威を高めたことであろう。

明治時代になり、基本的に身分による建築統制は撤廃され、庶民住宅にも床の間が作られるのが当たり前になっていった。それでも、床の間のある座敷は一種特別な部屋であり、ふだんは家族でも立ち入れない場所になっていた事例も多い。


書院造の例
初期書院造
慈照寺東求堂
書院造の完成
西本願寺白書院
二条城二の丸書院


寝殿造

寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の貴族住宅の様式である。

寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたりどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。 寝殿は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で木造の高床式家屋である。開放的な造りで、室外とは蔀戸(しとみど)などで仕切る。前方には池・築山などをもつ庭園が造られた。

平安時代当時の遺構は残っていないが、絵巻物や貴族の日記に記された記録などから、当時の様子がうかがい知られる。「源氏物語絵巻」などに描かれるものが典型的な形で、貴族の優美な生活にふさわしいものとなっていった。 現在の京都御所は、江戸時代の建物であるが、有職故実に従い、平安時代の古式を用いて建てられている。また、京都の大覚寺(嵯峨御所)、仁和寺(御室御所)は室町時代の御所の建物を移築したもので、寝殿造風の面影が感じられる。

なお、鎌倉時代の武家住宅の様式を「武家造」と呼ぶことがあるが、寝殿造を簡略化したもので独自の様式ではないとするのが建築史の通説。


武家造

武家造(ぶけづくり)とは、鎌倉時代の武家住宅の様式と想定されたものである。
実用性を重視し、簡素な造りであり、貴族文化に対抗した武家にふさわしい住宅様式と考えられた。
しかし、武家も元は貴族の出自を持ち、その邸宅も寝殿造を簡素化したもので、独自の様式とはしないのが、現在の通説である。(参考:太田博太郎「日本建築史序説」)

(付記:義務教育では今なお「武家造」と教えているようである。
おそらく平安時代-寝殿造、鎌倉時代-武家造、室町時代-書院造、江戸時代-数寄屋造、というのが覚えやすいためと考えられる)

(江戸時代の)武家の住まい(武家屋敷)を「武家造」と混同し、観光地の案内などで玄関、式台のある住まいを武家造と称していることがある。これは混乱を招く使い方であり、適切ではない。


入母屋造

入母屋造(いりもやづくり)は、日本の伝統的建築様式のひとつである。狭義には屋根の形式のことを指す(その場合単に入母屋という場合が多い)、西洋では少ないが、インド、韓国、中国、台湾、ベトナム、タイ、インドネシア等、東洋の寺院でも良く見られる。

概要
入母屋造の建築物の屋根は、上部においては切妻造(正面から見て前後二方向に勾配)、下部においては寄棟造(四方へ勾配)を持つ構造である。我が国においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた。京都御所の紫宸殿や平安神宮大極殿のほか各地の城郭建築でもその壮麗な姿を見ることが出来る。


入母屋造の代表的な建物
入母屋唐招提寺講堂
桂離宮


寄棟造

寄棟造(よせむねづくり)は、建築様式のひとつで、狭義では屋根の形式のことを指す。屋根の形式を指す場合には、単に寄棟ということも多い。

概要
屋根の構造

複数の寄棟が組み合わされた複雑な形状の屋根を持つ典型的な構成の寄棟造の屋根は、四方向に勾配を持ち、平面視は長方形で、2枚の三角形の屋根と2枚の台形の屋根からなる。四方に傾斜を持つことから、切妻造と比較して、雨の流れがよく雨仕舞いに優れる。その一方で、屋根部に垂直面がないために、切妻造や入母屋造と比較して小屋裏の換気が悪くなりがちである。

平面視が正方形の場合には、特に方形(ほうぎょう)と呼ばれる。この場合には、4枚の屋根がすべて三角形になる。また、複数の寄棟が組み合わされて、複雑な形状の屋根とされることも多い。

寄棟造は、世界各地の住宅などで見られる一般的な建築様式である。日本では、切妻造に次いで多く用いられている。歴史的には、東日本に多く見られ、古代には「東屋」(あずまや)と呼ばれた。


代表的な建築物
正倉院
唐招提寺金堂
東大寺大仏殿
元興寺極楽坊本堂


切妻造

切妻造の現代建築の例切妻造(きりづまづくり)とは後述の切妻屋根を用いた建築様式。

基本用語
妻・桁

妻(つま)とは建物の中央や中心に対して他端を意味する端(つま)を語源とし、配偶者の呼び名の妻は家屋の「つまや」に居たことから名付けられた。料理の添え物として用いられる代表的な「刺身のつま」も同じ意味をもつ。

桁(けた)とは鉛直に立つ柱に対して水平方向に位置する横架材の総称。屋根においては柱の上部で屋根の重量を柱に伝達する役目を担い、棟木と平行な向きに位置する。桁に対して水平方向で且つ直行方向のものを梁(はり)という。

平入り・妻入り
建物の各面の呼び名として、正面、あるいは屋根の棟(むね)(大棟)と平行な方向を平(ひら)といい、側面、あるいは屋根の棟(大棟)と直角な方向を妻(つま)という。

建物を水平投影した際の長辺、またその長さ、その方向を、桁・桁行・桁行方向といい、短辺を妻、短辺方向を妻側という。妻側の大きさを梁間(はりま)・梁行(はりゆき)という。

日本建築の神社仏閣等の寺社建築・旧街道沿いに残る商家等の町屋建築における平入り(平入、ひらいり)や妻入り(妻入、つまいり)はそれぞれの各面に出入り口のある様式をいい、平入りは屋根の平らな側の壁面に出入り口がある。妻側から出入りするものを妻入りという。


屋根
屋根の頂部に並ぶ10個の円筒部分が鰹木、頂部から交差して突き出ている斜め材が千木。千木の先端は水平に切断されてる。(伊勢神宮本殿(正殿))

切妻屋根
切妻屋根とは屋根形状のひとつで屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根。


神社建築においては、屋根の最頂部にある構造材の棟木(むなぎ)の上に鰹木(かつおぎ)と呼ぶ屋根を押さえる重石の役目を担う水平材が取り付く。


神社建築においては、妻部分の斜め材を囲う破風(はふ)部分の破風板が延長して千木(ちぎ)と呼ぶ斜め材が突出する。
千木の最端部が水平に切断されているものは女神、鉛直に切断されているものは男神を祀ると言う俗説がある。



数寄屋造り

数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つであり、数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされる。

語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者参照)、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。

歴史
数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代である。もとは庭園に面した別棟として造られた小規模 (多くは四畳半以下) な茶室を「数寄屋」と呼んだ。当時は床の間、棚、付書院を備え、座敷を荘厳する書院造が確立され、身分の序列や格式を維持する役割も持つような時代であったが、茶人たちは格式ばった意匠や豪華な装飾をきらった。そこで好まれたのが軽妙な数寄屋だったのである。

江戸時代以降は茶室から住宅などへとその幅を広げていった。現代では、料亭や住宅でも数奇屋建築にならったものが造られる。

なお、建築史では、書院造の系統であり独自の様式ではないとして、「数寄屋風書院」と呼ぶことが多い。


数寄屋独特の意匠
数寄屋建築は、書院建築が重んじた格式・様式を極力排しているのが特徴である。虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、シンプルながらも洗練された意匠となっている。以下に、数寄屋に特徴的な要素を挙げる。

長押の省略
丸みを残した面皮柱を用い、長押は省くことが多い。
床の間
書院造のそれと比べると小規模で質素である。
深い庇
庇を長めに造ることで、内部空間に深い陰翳と静謐をもたらす。

代表的な遺構
待庵 (京都府・妙喜庵)……千利休作
密庵 (京都府・龍光院)
如庵 (愛知県)
桂離宮新書院
修学院離宮
曼珠院書院
臨春閣(三渓園)
角屋

その他
俗に、和風の邸宅で費用を惜しまずに建てた立派な建物のことを「数寄屋造り」「数寄屋普請」とも言う。
谷崎潤一郎は数寄屋を好んだ。彼の自邸にも数寄屋風が採り入れられ、「陰翳礼讃」では数寄屋の美学が語られている。



日本の民家 合掌造り

合掌造り(がっしょうづくり)は、日本の豪雪地帯に見ることのできる住宅建築様式。

概要
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の角度の急な切妻屋根が大きな特徴となっている。屋根の形が合掌した時の手の形に似ているところから、合掌造りと言われるようになったと伝わっている。

合掌造りの小屋組は、白川郷や五箇山のものが有名になっているが、本来は日本の民家に広く見られた構造である。茅葺きの屋根では、雨仕舞いのために急傾斜の屋根にする必要があり、合掌造が有利である。また、豪雪地帯の積雪時の屋根荷重を支えるのにも都合がよい。

書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から『人』の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造である。

合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている。

茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。

特に、白川郷・五箇山の集落にある合掌造り建築群は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


関連項目
白川郷・五箇山の合掌造り集落

外部リンク
五箇山・白川郷の合掌造り



建築様式 茅葺

白川郷・五箇山の合掌造り集落茅葺(かやぶき)とは、植物を材料にして葺く日本家屋の屋根の構造の一つである。茅葺き屋根、茅葺屋根ともいう。稲藁や麦藁を中心に使って葺く地域では藁葺(わらぶき)という場合もある。

材料
茅という植物はない。茅とは、アシ、ススキ、チガヤなどの長い繊維の葉や茎を持つ植物の総称である。

歴史
太平洋戦争以前では、日本各地で一般的に観られた屋根であるが、戦後、農村の人口が変化し共同作業として行う葺き替えが実施できなくなったこと、規制等により新たに建造することが簡便ではないこと。
また、スギなどの木材価格が一時的に高騰し茅場が人工林化したことなどから急激に姿を消した。現在でも、ごく希に農村で見かけることもあるが、葺き替えができずにトタン屋根をかぶせたものなどがほとんどであり、屋外博物館や商業施設以外で自然形態のまま存在するものは珍しい。

海外では(西ヨーロッパ、ドイツ・デンマーク・オランダ等)、一般民家等は少なくなってはいるが富裕層では裕福の象徴的な意味もあり、新築で建てるなど比較的数が多く、日本の職人も研修などで訪れたりもする。

葺き替え
場所や使用状態にもよるが30年ごとに葺き替えを行うことが多いようである。ただし、昔の建物は囲炉裏による薫蒸作用により防虫効果が働いていたこともあり、そのような効果が見込まれない博物館や商業施設では、茅葺の劣化が著しく進行する場合もある。

材料の確保については、元来は村落周辺に茅場と呼ばれるススキ草原があった。これは、家畜の餌などとして定期的に刈り入れを行うことで、遷移の進行を止めてススキ草原を維持していたものである。しかし、第二次大戦以降の生活の変化によって利用されなくなったことから、ほとんどが失われた。しかし、その後の減反や離農により茅場と化している場所も増えていることから、以前よりは苦労しなくなっているという。職人の確保も、若手を育成している建築会社が出現するなど、減少に歯止めが掛かろうとしている。

茅の屋根の縁は見た目を美しくするため切りそろえる場合が多いが、切りそろえないほうが水はけはいい、とも言われている。

茅葺の建物が集中してある場所
白川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県)― 世界遺産(文化遺産)
大内宿(福島県南会津郡下郷町)
かやぶきの里・北村(京都府南丹市美山町)
江戸東京たてもの園(東京都小金井市)
日本民家園(神奈川県川崎市)
三州足助屋敷(愛知県豊田市足助町)

茅葺の施設
吉村医院(愛知県岡崎市)

関連項目
合掌造り
苫屋

外部リンク
茅葺屋ホームページ
茅葺民家の美



建築様式 合掌造り

合掌造り(がっしょうづくり)は、日本の豪雪地帯に見ることのできる住宅建築様式。

概要
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の角度の急な切妻屋根が大きな特徴となっている。屋根の形が合掌した時の手の形に似ているところから、合掌造りと言われるようになったと伝わっている。

合掌造りの小屋組は、白川郷や五箇山のものが有名になっているが、本来は日本の民家に広く見られた構造である。茅葺きの屋根では、雨仕舞いのために急傾斜の屋根にする必要があり、合掌造が有利である。また、豪雪地帯の積雪時の屋根荷重を支えるのにも都合がよい。

書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から『人』の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造である。

合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている。

茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。

特に、白川郷・五箇山の集落にある合掌造り建築群は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。


関連項目
白川郷・五箇山の合掌造り集落

外部リンク
五箇山・白川郷の合掌造り



日本の住宅

日本の住宅(にほんのじゅうたく)

日本住宅史
日本の住宅は近年までほとんどが木造(木造軸組構法)で、畳のある部屋(和室)が中心であったが、第二次世界大戦後の急速な生活スタイルの変化により、現在は中・高層建築ではほとんどが鉄筋コンクリート造、低層・戸建ではプレハブ工法等の住宅も多くなり、和室を造らない場合も多くなってきている。

原始・古代(竪穴住居、高床式住居)
平安時代には貴族の住まいとして寝殿造が成立した。庶民の住居は相変わらず竪穴住居が主流であった。
鎌倉時代の武士の住まいは武家造と呼ばれることもあるが、今日では寝殿造を簡略化したものと考えられている。
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代である。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたが、いわゆる東山文化の時代、応仁の乱前後の足利義政の邸宅になると、初期の書院造と呼ばれるものになる。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになった。

中世の絵巻物などに見る庶民の町屋はまだ非常に簡素なものが多かった。
織田信長による天下統一は、住宅史上も画期になったと考えられる。信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城などにおいて身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、書院造が完成した。家臣は城下町に住むよう命じられ、狩野永徳の洛中洛外図屏風などから、都市建築(町屋、武家屋敷など)も発達してきたことが伺える。
上層の住まいとして書院造が定着し、江戸時代以降、茶室の要素を採り入れたいわゆる数寄屋造りの住宅も造られるようになった。

江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、関西の住宅の方が質が高く、次第に関東にも広まっていった。近世初期、関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かった。工法も掘立柱を立て、茅で屋根や壁を葺くものであった。
農家も次第に発展し、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝のための部屋が造られていった。工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わり、高い技能を持った職人が建設するものになった。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代後期以降、「田の字型」の間取りが広く普及していった。この間取りは結婚、葬儀など人が集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせてふすまを開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものは、「田の字型」のタイプが多い。

江戸時代には贅沢を諌めるため、床の間や瓦葺屋根などは制限されていた。武士の住まいでは、式台、床の間が許され、農家でも名主クラスだと床の間が許される、といったように身分による統制が行われていた。ただ、防火のため瓦葺屋根が奨励されたり、義務付けられた町もある。

明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになった。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していった。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅であった。

大正時代以降、サラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られた。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。

第二次世界大戦後、住宅難の中で公団住宅など、大量供給型の住宅が造られた。ダイニング・キッチンなどが新たに工夫された。
かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったが、今日では洋風の住まいが普及し、新築の家は、和室と共に床の間のある例も減少してきている。また、かつての住宅は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致のものが多かったが、現在は職住分離の方が主流になっている。


住宅の種類
日本の住宅の種類には一戸建て、集合住宅(マンション、アパート、団地、公団住宅)、長屋、文化住宅などがある。
住宅の集まりを指して集落、部落、地区などと言う。
古くからの習慣で、住居が建っている場所や住人の職業などで区別して商家、町家、農家などとも言う。



栃木の民家・巴波(うずま)川沿いの町並み

江戸時代から日光例幣使街道の宿場町として栄えた街、巴波(うずま)川による舟運が盛んだった。

市街地には江戸時代から明治時代にかけての蔵や商家が多く残る。
このため川越のように活気に満ちた商家が沢山できて、今日、その歴史的な町並みを見物できる。

こうした歴史資産を観光資源化し、関東地方では埼玉県川越市や千葉県佐原市(現:香取市)とともに小江戸サミットを開くなど、「蔵の街」として知られる。
栃木駅から新栃木駅までの約4kmの遊歩道を散策すると白壁土蔵、黒壁や格子造りの商家などを見ることができる。
郷土参考館、塚田記念館、岡田記念館、横山郷土館などみどころがたくさんある。

また、市西部にある太平山からの景色は「陸の松島」として観光名所ともなっている。

蔵の街の街並み
 巴波川(うずまがわ)沿いに広がる蔵群
 とちぎ蔵の街遊歩道
 とちぎ蔵の街観光館(旧田村屋見世蔵)
 とちぎ蔵の街美術館
 岡田記念館本館(代官屋敷)、南館、翁島別邸
 畠山陣屋跡
 横山郷土館
 塚田歴史伝説館
安達好古館
好古壱番館(旧安達屋商店)
山本有三ふるさと記念館
三枡屋本店
油伝味噌屋敷
県庁堀
とちぎ山車会館
うずま川綱手道 など

栃木市へのアクセス方法
電車:JRの場合
東京駅 → 小山駅 新幹線 45分
         快速 約1時間15分
上野駅 → 小山駅 → 栃木 快速(上野駅 → 小山駅)
普通(小山駅 → 栃木駅) 約1時間20分

電車:東武鉄道の場合
浅草駅 → 栃木 特急 約1時間10分
        快速 約1時間15分

車:東北自動車道の場合
河口JCT → 栃木I.C 東北自動車道 約46分

栃木市観光協会



前沢曲家集落(福島県)山里に茅葺民家がひっそりと建つ

会津高原駅から路線バスに乗る、カーブが多い道を昇って中山トンネルを越すと舘岩村に入る、会津高原は涼しい風が爽やかだ。カーブが緩やかになって、立岩村役場付近を通過して前沢バス停に着く、バス停前には茅葺屋根のトイレがあり目印になる。その奥の移築されたそば処「曲家」で腹ごしらえをする。地元の裁ちそばが美味い。

ここから一般車両は立入禁止で駐車場にもなっている、ここで前沢曲家資料館入館料を払う、舘岩川の橋を渡り真っ直ぐ延びる道の向こうに曲家集落が見える。道の両側は田や畑が広がる。

前沢集落は明治40年に全戸焼失する大火により、各戸が同一の大工集団により一時期に建築されたため、整った統一的景観を残している。この付近は豪雪地帯で、農耕馬を飼う際、馬小屋を別に建てないで、馬も家族の一員として一軒の建物内に住居部分と土間、馬屋の配置にした。馬屋が道路と一番近い位置に建てたため曲家になった。建物を上から見るとL字型をしている。また、茅葺屋根は各戸によって少しずつ違い、切妻、入母屋、寄棟造りなどがあり興味深い。

曲家資料館が集落入口にあり、民具の展示、山村生活を体験でき雪深い地方の生活がいかに大変か分る。集落には10戸の曲家が残され現在も居住している。
昭和63年舘岩村環境美化条例に基づく保存地区の指定、曲家集落の保存に努めている。
村内の湯の花温泉の先、水引集落にも戸数は少ないが茅葺曲家集落がある。

お役立ちデータ
[種別]茅葺曲家集落
[選定]なし
[ポイント]路線バスは二時間に一本。
 同じ曲家でも各家で屋根の形や間取など少しづつ違う
[問い合せ]舘岩村企画観光課
 0241-78-3330
[交通]会津鬼怒川線会津高原駅下車、
 バス40分、タクシー20分


大内宿(福島県)江戸時代そのままの宿場にタイムスリップ

茅葺き屋根の駅舎、会津線の湯野上温泉駅で下車しタクシーで大内宿に向かう。阿賀野川の支流小野川沿いにそっての上り道だ。かって狭い道も大内ダムの建設で大型バスの通れる立派な道になった。渓谷美に見取れているうちに大内宿に着いた。

江戸時代に大内宿は会津若松と日光・今市を結ぶ会津西街道の宿場として整備され、会津藩の参勤交代に使われ、人や廻米など物資の往来も多かった。明治十七年に現在の国道112号線沿いに新たに道路が開通し、大内宿は宿場としての使命が終わり山里に取り残されてしまった。

逆にこのことが、四百メートルほどの街道ぞいに茅葺き民家約四十棟もが整然と並ぶ大内宿として後に脚光を浴びることになる。あまり一般に知られなかったのは、ここが馬の一夜の宿で伝馬宿だったためだ、テレビドラマ・マスコミで大内宿が紹介されると見学者が多くなった。

昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、電線・柱などの地下埋設、徐々にトタン屋根を茅葺きに戻すなどの修復・修景がされている。

大内宿は江戸時代後期から明治に建築された重厚な寄棟造の建物だ。道路の両側に生活用水路があって、綺麗な水が流れている、洗い場や天然クーラーの役割をしている。
 大内宿を歩いていると「そば」の看板が目につく、大内宿入り口近くの三澤屋でそばを食べた、高遠そばは薬味として長ねぎがそのまま出てきたので驚いたが、味は美味い。

◎お役立ちデータ
[種別]宿場町
[選定]重伝建地区(1981年)
[ポイント]観光客が多いので、日曜日は避けたほうが良い。
湯野上温泉駅から定期路線バスはないので注意。
[問い合せ]下郷町観光協会
0241-68-2920
[交通]会津鉄道会津線湯野上温泉駅、タクシーで約10分。約7km


みちのく小京都 角館町

角館町(かくのだてまち)は、かつて秋田県仙北郡におかれていた町。2005年9月20日に田沢湖町、西木村と合併し、仙北市となった。

町のシンボル
みちのくの小京都
武家屋敷と枝垂れ桜
桜並木

観光地
武家屋敷通り(ぶけやしき/武家屋敷通り)
角館は、深い木立と重厚な屋敷構えが今もなお藩政時代の面影を残す街。東北の小京都と呼ぶのにふさわしい風情を、町全体に漂わせた桜の名所である。

この街は1620年(元和6年)角館地方を治めていた芦名義勝によって造られた。豊かな仙北平野の北部に位置し、三方を山々に囲まれ、西は桧木内川、南は玉川に沿った地形で、城下町を形成するのに最も適した場所でもあった。

城下の縄張り(設計)として最も注目されるのは、南北に延びる町の中央に土塁を築いた「火除け」を設け、武家居住区の「内町」と町人居住区「外町(とまち)」とに分断したことである。武家屋敷は生活の場所であると同時に、ひとつの城郭を成していると言える。

古城山山麓の国道46号から火除け前までの通称「武家屋敷通り」と呼ばれる区域が、昭和51年9月、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

安藤醸造元(あんどうじょうぞうもと/味噌・しょうゆ販売)
  安藤醸造元北浦本館(-きたうらほんかん/味噌・しょうゆ・しょうゆソフト販売)
檜木内川堤(ひのきないかわつつみ)
白岩焼和兵衛窯(しらいわやきわへえがま/白岩焼窯元、展示販売)
常光院(佐竹北家菩提寺)、天寧寺(蘆名家菩提寺)、學法寺(二階堂家菩提寺)

外部リンク
角館町観光協会
みちのくの小京都・角館 (角館商工観光課)
角館観光 (仙北市市役所)



街並みウォーキングの喜び

町は生きている。
町民と街並みは、お互い持ちつ持たれつの関係。その付き合いが長きにわたると、町家・商家・学校などの建築物も人間に似てきて、物を考えるようになる? すると、町全体が鼓動を打ち、息づいてきても不思議ではない。
戦災を免れた立派な城下町が全国各地に残されている。
そこに、近代的な建物が増えていくのは、町も生きている以上避けることができない運命だが伝統的な街並みと巧くバランスをとってほしいもの。
また、古きよき町ゾーンは、統一感のある景観保存をして欲しいもの。わたしたち旅人はおおいに旅行して、街の振興に寄与しつつ、個性的なローカル色・生活文化を味わいたい。
そのためには、自らの足で街並みを歩き回ろう。観光スポットめぐりの「点々旅行」ではなく、「線の旅」「面の旅」の醍醐味を味わおう。
「○○町が面白い、名建築とお屋敷が集まっている」というだけでは、不親切。
現地では、機会あるごとに町の人々と会話を楽しもう。あなたが、自分の町に好意を持っていることは、先方にすぐに伝わるものだ。途中で、街角の茶房・喫茶店によってお抹茶やコーヒーでくつろごう。
こういう旅では、人々が毎日の生活を大切に生きていることが実感され、自分もそうしたいと思うもの。新興の町にはない、町の息づかいを体で感じよう。


昔ながらの茅葺民家を探して撮影できると、ホットします

民家の中で茅葺の民家は保守、保存に大変な金額がかかることから、茅葺を覆うようにトタンがまかれていたり、解体されその土地に新築住宅がたてられてしまうのが現状です。

昔ながらの茅葺民家を探して撮影できると、ホットします。いつまでも茅葺のまま残って欲しいと思うと同時に維持していくには多額の金銭がかかる事を思えば、いつしか消失してしまう運命なのかなとも思います。

茅葺情報ネット
茅葺き、萱葺き、藁葺き、草葺き、茅屋根、藁屋根、草屋根の情報

民家野外博物館一覧表


古民家の野外博物館
川崎市立日本民家園
日本を代表する古民家の野外博物館。
江戸時代の民家など25の文化財建造物を移築して展示しています。
川崎市立日本民家園
郵便番号214-0032 川崎市多摩区枡形7-1-1
電話044-92二-2181 FAX044-934-8652


都築民家園
開園時間
午前9時~午後5時 その他公園部分は、24時間オープンしています。
休館日 12/29~1/3 毎月第3月曜日(祭日の場合は翌日)
入館料 無料
所在地 横浜市都筑区大棚西2番   大塚歳勝土遺跡公園内
交通案内
 横浜市営地下鉄「センター北」駅 徒歩8分
 横浜市歴史博物館から遊歩道があります。
 駐車場は、歴史博物館、センター北駅をご利用ください。
お問い合わせ:都筑民家園管理運営委員会
電話045-594-1723 FAX045-594-2019


岡本公園民家園
所在地 157-0076 世田谷区岡本2-19-1
電話 03-3709-6959
交通 バス 東急田園都市線・二子玉川駅←→
小田急線・成城学園駅前南口「砧工業高校前」下車 徒歩5分
徒歩 東急田園都市線・二子玉川駅より20分
駐車場 収容台数 12台 無料


次大夫堀公園民家園
所在地 157-0067世田谷区喜多見5-27-14
電話03-3417-8492
交通 バス
小田急線・成城学園前駅南口←→東急田園都市線・二子玉川駅「砧農協前」または「次大夫堀公園前」下車徒歩2分
徒歩:小田急線成城学園前駅より15分
駐車場:収容台数33台。有料30分100円


野タト博物館 合掌造り民家園
白川郷原風景の保存公開施設
〒501-5627 岐阜県大野都白川村大字荻町2499番地
電 話05769-6-1231 FAX05769-6-1830
URL http://roo.to/Minkaen/
Eメール minkaen@shirakawa-go.org


立花大正民家園 旧小山家住宅
ごあんない
住所:〒131-0043
東京都墨田区立花六丁目13番17号
交通:東武鉄道亀戸線小村井駅から15分、東武鉄道亀戸線あずま駅から10分、JR平井駅から10分
お問い合せ先
立花大正民家園 電話:03-3611-4518
すみだ郷土文化資料館 電話:03-5619-7034
教育委員会生涯学習課文化財担当 電話:03-5608-6310


◆川越道緑地 古民家園
立川市幸町4-65
電車:西武線玉川上水駅より徒歩20分
モノレール:多摩都市モノレール「砂川七番」下車 徒歩20分
立川市富士見町3-12-34  ℡042-525-0860 立川市歴史民俗資料館


民家・町並みの本のご紹介

民家・町並みの本は沢山出版されていますが、街の本屋さんの店頭ではあまりみかけることはないでしょう。
以下に紹介する本は各分野の専門家が執筆・編集していますので参考になります。

歴史と文化を現代に伝える町並み約400カ所を全国に取材するシリーズの第1弾。京都西陣、近江八幡、神戸北野、金沢、高山などの名所から、知る人ぞ知る町まで収めた近畿・東海・北陸編。










歴史と文化を現代に伝える町並み約400カ所を全国に取材するシリーズの第2弾。倉吉、松江、津和野、倉敷、尾道、萩、柳川、知覧、竹富島などの名所から、知る人ぞ知る町まで収めた中国・四国・九州・沖縄編。










歴史と文化を現代に伝える町並み約400カ所を全国に取材するシリーズの完結号。東京丸の内、谷中、佐原、栃木、妻篭、喜多方、角館、遠野、函館、小樽など、関東・甲信越・東北・北海道の町並みを収録。










出版社/著者からの内容紹介
結いの制度に守られた合掌造りの集落、岐阜県白川村。江戸時代の風情を伝える島崎藤村ゆかりの宿場、長野県妻籠宿。文明開化の足跡が残る和洋の文化が混淆する町並み、北海道函館市元町末広町。江戸幕府終焉の時代に華開いた港を見下ろすモダンな
町並み、兵庫県神戸市北野町山本通。川岸を彩って連なる富豪の暮らした町家や土蔵、岡山県倉敷市倉敷川畔。木蝋生産で栄えた町の浅黄色の漆喰壁と多彩な意匠、愛媛県内子町八日市護国。三味の音が聞こえる繊細な木虫籠が続く花街、石川県金沢市東山ひがし。平安京よりの歴史と多くの古刹と石段が続く参詣路、京都府京都市産寧坂。高い木立に囲まれた風格ある武家屋敷の佇まい、秋田県角館町角館。夏みかんの香り漂う重臣たちの屋敷跡、山口県萩市堀内地区…………
宿場町、城下町、門前町、商家町、港町など、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている伝統的な日本の町並みや集落をすべて取り上げ(2004年4月現在62地区)、豊富な写真とともに、歴史的な背景や見どころ、生活風景などを紹介するパーフェクトガイドブック。



民家園

第二次世界大戦後、特に高度成長期以降は、日本人の生活スタイルも大きく変化した。伝統的な生活文化を後世に残すため、民家を移築復元した民家園などが各地に作られるようになった。古い民家を保存、公開することで、歴史を学ぶ史料としている。単に建物を公開するだけでなく、当時の民具を展示したり、いろりに火をくべたり、伝統行事を再現するなど、より生活感を表し、来場者が身近に感じられるよう工夫をこらしている施設も多くなってきた。
全国各地に民家園があります。一日ゆっくり見学されると、昔の建物、習慣、行事などを知ることができます。

民家野外博物館一覧表

主な民家園
四国村(四国民家博物館)(香川県高松市)
日本民家集落博物館(大阪府豊中市)
日本民家園(神奈川県川崎市)
江戸東京たてもの園(東京都小金井市)



日本の典型的な民家

農家

屋内に土間があり、田の字型の間取りとしたものが典型的なものである。土間には煮炊きをするかまどがあり、馬屋もよく見られる。いろりの周りで家長を中心に食事を取る。時代が下がると接客用の部屋も造られ、冠婚葬祭で人が多く集まる際は、戸やふすまを開け放して部屋を広く使えるように工夫された。土間で縄をなったり、縁側で機織をしたり、屋根裏で蚕を飼うなど、住居と生業の結びつきが強い。茅葺や杉皮、瓦など屋根材も地域によって特徴が見られる。

町家
間口が狭く、奥行きがあり、裏まで通り抜けの通路が設けられることが多い。間口が狭いのは、間口の大きさに応じて税金をかけていた名残だといい、道路に面して短冊形に敷地を取るタイプが各地に見られる。道路に面した表側は店になっており、裏の方に住まいや蔵などを設けた。京都などの町家に見られる坪庭は、通風・採光の役割を果している。



プロフィール
パソコン暦20年ですがほとんど仕事でした。これからは趣味のパソコンとして楽しみながら操作したいと思っています。
運営ポリシー
日本伝統文化は長い歴史のなかで育まれてきたものです、その文化を再発見して下さい。 日本伝統文化の中には後継者不足の問題などで消滅してしまうものもあります。
また、伝統的建造物も耐久年数がありますので、昔のままの保存が困難になってきています。
現状を撮影してどんな状態なのか、紹介していきたいと思います。
いつまでも参考にしていただけるブログを目指します。
☆これからも応援よろしく☆
あなたに育てられるブログです★