こけしの保存方法
木の工芸品であるので、湿気乾燥の影響が少なく、また直射日光を避けることが望ましい。
こけしに触るときは、手が汚れていたり汗ばんでいてはいけない。
購入時に選ぶため触れる事があれば、手をハンカチ等で拭ってから触れるのがマナーである。
通常のこけしは蝋で仕上げして有るものだが、それでも出来る限り色落ちを避けるために必要な事である。
直射日光は色彩と木の劣化を進めるので、避けなければならない。湿度が高低すると、こけしが割れてしまったり、カビが生える原因となる。
こけしの鑑賞方法
こけしの鑑賞方法に絶対的な規則は無い。もちろん作り手(工人)の技量の問題はあるが、自分自身の感性で直感的に良し悪しを感じ取って良い。
従って他人が勧める物でも、表彰などで高く評価されていようとも、自分が気に入らなければ問題外である。
こけしを通じて工人の感性と直接的に向き合い、形態が美しいか表情は魅力的か、心に訴えるものがあるか、判断すれば良い。
伝統こけしに関しては、その成り立ちの背景にある東北各地の文化や、時代ごとの変化、各工人の育ちや作品に影響を受けた過程、作品ごとの個性を楽しむことが出来る。
東北という地域を理解する上で大変役に立つであろう。
こけしの系統
伝統こけしは産地によって特徴に違いがあり、主な物は下記の各系統に系統に分類することが出来る。
土湯系(土湯温泉、飯坂温泉、岳温泉・福島)
頭部には蛇の目の輪を描き、前髪と、鬘の間にカセと呼ぶ赤い模様がある。胴の模様は線の組み合わせが主体。
弥治郎系(白石市弥治郎・宮城)
頭頂にベレー帽のような多色の輪を描き、胴は太いロクロ線と簡単な襟や袖の手書き模様を描く。
遠刈田系(遠刈田温泉・宮城)
頭頂に赤い放射線状の飾りを描き、さらに額から頬にかけて八の字状の赤い飾りを描く。胴は手書きの花模様で菊や梅を重ねたものが一般的、まれに木目模様などもある。
鳴子系(鳴子温泉・宮城)
首が回るのが特徴。首を回すと「キュッキュ、キュッキュ」と音がする。胴体は中ほどが細くなっていて、極端化すれば凹レンズのような胴体を持つ。胴体には菊の花を描くのが通常である。
作並系(仙台市、作並温泉、山形市、米沢市、寒河江市、天童市・宮城・山形)
頭頂に輪形の赤い飾りを描き、胴は上下のロクロ線の間に菊模様が描かれる。
蔵王高湯系(蔵王温泉・山形)
頭頂に赤い放射状の手柄を描くが黒いおかっぱ頭もある。胴は菊や桜のほか、いろいろな植物を描く。
肘折系(肘折温泉・山形)
頭部は赤い放射線か黒頭で、胴模様は菊、石竹などが多い。
木地山系(木地山・秋田)
頭部には大きい前髪と鬘に、赤い放射線状の飾りを描く。胴は前垂れ模様が有名だが、菊のみを書いた古い様式もある。
南部系(盛岡、花巻温泉・岩手)
簡単な描彩に、頭がぐらぐら動くのが特徴。
津軽系(温湯温泉、大鰐温泉・青森)
単純なロクロ模様、帯、草花の他、ネブタ模様などを胴に描く。
これらの系統に含まれない伝統こけしも存在する。
こけしの歴史
こけしが生まれるには、主に次の三つの条件が必要だったと言われてる。一つ目は、木地師が山から降りて温泉地に定住し、湯治客の需要に直接触れるようになった事。二つ目は、赤物が伝えられた事。三つ目は、湯治習俗が一般農民に或る種の再生儀礼として定着した事。
赤物というのは赤い染料を使った玩具や土産物のこと、赤は疱瘡(天然痘)から守るといってこの赤物を喜んで買い求め、子供のもてあそび物にした。赤物玩具を作る人のことも、赤物玩具を背負って行商に売り歩く人のことも赤物師と呼んでいた。赤物のもっとも盛んな産地は、小田原から箱根にかけての一帯であり、その手法が江戸の末期、文化文政から天保の頃に東北に伝わった。東北の農民達がさかんに伊勢詣りや金比羅詣りに行って、その途上、小田原、箱根の木地玩具(赤物)を見るようになったのがその契機といわれる。湯治の農民達も土産物としてこの赤物の木地玩具を望むようになった。いままでお椀やお盆のように白木のまま出していた木地師が、色を付けた製品を出すようになるのは大きな変革であり、それは山の木地師が山から降りて湯治場に定着し、湯治客と直接接するようになって初めて起こったと考えられる。
当時の農民にとって湯治とは、厳しい作業の疲れを癒し、村落共同体の内外を問わず人々とのコミュニケーションを楽しむ重要な年中行事であった。事実上、農閑期以外に休日を持たない激務が続く中で、湯治場において得られる赤物こけしは心身回復のイメージと重ねられる縁起物でもあり、それを自らの家族の下へと運ぶ象徴的な形象であった。前述の通り、本来の用途は子供用の玩具であったにもかかわらず、現代においては一種の美術品としても見られる下地が存在するのはそのためである。 現在では江戸時代の末期、これら複数の条件が最も揃うと共に、冷害などのとりわけ過酷な環境の克服を余儀なくされ続けた東北地方において、こうしてこけしが発祥したものと考えられている。
また、あえて上記のような歴史的考察を無視し、「こけし」の起源を「子消し」に求めた説も一部に存在する。しかしそれらは何れも発音が似ている事以外に根拠を示す事が出来ず、広義の都市伝説とされる。
こけし
こけし(小芥子)とは、東北の温泉地で江戸末期(文化文政)ころから湯治客に土産物として売られはじめた轆轤(ろくろ)引きの木製の人形玩具で、一般的には球形の頭部と円柱の胴だけのシンプルな形態をしている。本来の玩具としてのこけしはキューピーなどの新興玩具に押されて大正期には衰退し、転業休業する工人も増えたが、一方で大正のころから趣味人が好んでこけしを蒐集するようになり、子供の玩具から大人の翫賞物として作り続けられた。東京、名古屋、大阪にこけしを集める蒐集家の集まりが出来て、一時休業した工人にも再開を促し、かなりの作者の作品が幸いにも今日まで残ることとなった。
こけし大きく分けて伝統的な形式に則った「伝統こけし」と個性が豊かな「新型こけし」に分かれる。「新型こけし」には近代的インテリアにあった工芸的な「創作こけし」と、戦後東北に限らず全国観光地で土産品として爆発的に売られた観光土産品の「こけし人形」がある。
「伝統こけし」は、産地ごとに形式が異なり、その形式と伝承経緯により約10種類の系統に分類される。
こけしの名称は、各地によってすこしづつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがあった。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、昭和14年8月に鳴子温泉で開催された全国こけし大会で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
毎年5月3日~5日まで、宮城県白石市において「全日本こけしコンクール」が開催される。最も優れた作品には、最高賞として内閣総理大臣賞が授与される。 また鳴子では9月の第1土曜日曜に「全国こけし祭り」が開かれ、コンクールや工人の製作実演が行なわれる。
書院造
書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代中期以降に成立した住宅の様式である。その後の和風住宅は、広い意味で書院造の強い影響を受けている。
特徴
書院造は、床の間(または押板)、違い棚、付書院という座敷飾りを備えたものである。今日の宴席でも、しばしば床の間の位置によって「上座」「下座」などと座席位置が決められることがあるが、これは床の間との位置関係が身分序列の確認を促す役割を果たしていたことを示していると言えよう。
書院造の成立
書院はもともと禅僧が書を読むために室内からはり出し、床板を書見のための机とし、前に明かり障子などを設けたものであった。また、押板(床の間の前身)や違い棚は、書画、置物などを飾る場所として造られてきた。
これらが集約された例として、足利義政が慈照寺(銀閣寺)の東求堂に造った書斎、同仁斎が建築史上有名である。これは四畳半の小さな一間であるが、付書院と棚を備え、畳を敷き詰めたもので、現在まで続く和風住宅の原型とも考えられる。
室町時代後期には、寺院の書院や武家住宅に押板や棚、書院を備えるものが造られるようになり、次第に書院造の形式が整えられていった。
書院造が、身分序列を確認する装置として完成されたのは安土桃山時代の城郭建築であったと考えられる。信長の築いた安土城、秀吉が建てた大坂城や聚楽第には狩野派による華麗な壁画が描かれ、権力者の威勢を示すものであった。ただし、これらの遺構はいずれも現存していない。
現在に残る遺構としては三代将軍徳川家光によって建てられた二条城二の丸書院が著名である。これは将軍が対面を行う場所であり、将軍、諸大名の席次が厳格に定められている。将軍の座る上座は押板、棚、書院、帳台構(武者隠し)によって荘厳されており、また下手から見ると床面が徐々に高くなり、上座は折上格天井という格式の高い造りになっている。
書院造の普及
江戸時代には庶民の住まいに床の間は贅沢であるとして統制が加えられていたが、名主相当の有力者の場合(代官を自宅に迎えるような場合)、床の間を許されたものもある。このような座敷飾りが、さらに村落内での権威を高めたことであろう。
明治時代になり、基本的に身分による建築統制は撤廃され、庶民住宅にも床の間が作られるのが当たり前になっていった。それでも、床の間のある座敷は一種特別な部屋であり、ふだんは家族でも立ち入れない場所になっていた事例も多い。
書院造の例
初期書院造
慈照寺東求堂
書院造の完成
西本願寺白書院
二条城二の丸書院
寝殿造
寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の貴族住宅の様式である。
寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたりどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。 寝殿は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で木造の高床式家屋である。開放的な造りで、室外とは蔀戸(しとみど)などで仕切る。前方には池・築山などをもつ庭園が造られた。
平安時代当時の遺構は残っていないが、絵巻物や貴族の日記に記された記録などから、当時の様子がうかがい知られる。「源氏物語絵巻」などに描かれるものが典型的な形で、貴族の優美な生活にふさわしいものとなっていった。 現在の京都御所は、江戸時代の建物であるが、有職故実に従い、平安時代の古式を用いて建てられている。また、京都の大覚寺(嵯峨御所)、仁和寺(御室御所)は室町時代の御所の建物を移築したもので、寝殿造風の面影が感じられる。
なお、鎌倉時代の武家住宅の様式を「武家造」と呼ぶことがあるが、寝殿造を簡略化したもので独自の様式ではないとするのが建築史の通説。
武家造
武家造(ぶけづくり)とは、鎌倉時代の武家住宅の様式と想定されたものである。
実用性を重視し、簡素な造りであり、貴族文化に対抗した武家にふさわしい住宅様式と考えられた。
しかし、武家も元は貴族の出自を持ち、その邸宅も寝殿造を簡素化したもので、独自の様式とはしないのが、現在の通説である。(参考:太田博太郎「日本建築史序説」)
(付記:義務教育では今なお「武家造」と教えているようである。
おそらく平安時代-寝殿造、鎌倉時代-武家造、室町時代-書院造、江戸時代-数寄屋造、というのが覚えやすいためと考えられる)
(江戸時代の)武家の住まい(武家屋敷)を「武家造」と混同し、観光地の案内などで玄関、式台のある住まいを武家造と称していることがある。これは混乱を招く使い方であり、適切ではない。
入母屋造
入母屋造(いりもやづくり)は、日本の伝統的建築様式のひとつである。狭義には屋根の形式のことを指す(その場合単に入母屋という場合が多い)、西洋では少ないが、インド、韓国、中国、台湾、ベトナム、タイ、インドネシア等、東洋の寺院でも良く見られる。
概要
入母屋造の建築物の屋根は、上部においては切妻造(正面から見て前後二方向に勾配)、下部においては寄棟造(四方へ勾配)を持つ構造である。我が国においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた。京都御所の紫宸殿や平安神宮大極殿のほか各地の城郭建築でもその壮麗な姿を見ることが出来る。
入母屋造の代表的な建物
入母屋唐招提寺講堂
桂離宮
寄棟造
寄棟造(よせむねづくり)は、建築様式のひとつで、狭義では屋根の形式のことを指す。屋根の形式を指す場合には、単に寄棟ということも多い。
概要
屋根の構造
複数の寄棟が組み合わされた複雑な形状の屋根を持つ典型的な構成の寄棟造の屋根は、四方向に勾配を持ち、平面視は長方形で、2枚の三角形の屋根と2枚の台形の屋根からなる。四方に傾斜を持つことから、切妻造と比較して、雨の流れがよく雨仕舞いに優れる。その一方で、屋根部に垂直面がないために、切妻造や入母屋造と比較して小屋裏の換気が悪くなりがちである。
平面視が正方形の場合には、特に方形(ほうぎょう)と呼ばれる。この場合には、4枚の屋根がすべて三角形になる。また、複数の寄棟が組み合わされて、複雑な形状の屋根とされることも多い。
寄棟造は、世界各地の住宅などで見られる一般的な建築様式である。日本では、切妻造に次いで多く用いられている。歴史的には、東日本に多く見られ、古代には「東屋」(あずまや)と呼ばれた。
代表的な建築物
正倉院
唐招提寺金堂
東大寺大仏殿
元興寺極楽坊本堂
切妻造
基本用語
妻・桁
妻(つま)とは建物の中央や中心に対して他端を意味する端(つま)を語源とし、配偶者の呼び名の妻は家屋の「つまや」に居たことから名付けられた。料理の添え物として用いられる代表的な「刺身のつま」も同じ意味をもつ。
桁(けた)とは鉛直に立つ柱に対して水平方向に位置する横架材の総称。屋根においては柱の上部で屋根の重量を柱に伝達する役目を担い、棟木と平行な向きに位置する。桁に対して水平方向で且つ直行方向のものを梁(はり)という。
平入り・妻入り
建物の各面の呼び名として、正面、あるいは屋根の棟(むね)(大棟)と平行な方向を平(ひら)といい、側面、あるいは屋根の棟(大棟)と直角な方向を妻(つま)という。
建物を水平投影した際の長辺、またその長さ、その方向を、桁・桁行・桁行方向といい、短辺を妻、短辺方向を妻側という。妻側の大きさを梁間(はりま)・梁行(はりゆき)という。
日本建築の神社仏閣等の寺社建築・旧街道沿いに残る商家等の町屋建築における平入り(平入、ひらいり)や妻入り(妻入、つまいり)はそれぞれの各面に出入り口のある様式をいい、平入りは屋根の平らな側の壁面に出入り口がある。妻側から出入りするものを妻入りという。
屋根
屋根の頂部に並ぶ10個の円筒部分が鰹木、頂部から交差して突き出ている斜め材が千木。千木の先端は水平に切断されてる。(伊勢神宮本殿(正殿))
切妻屋根
切妻屋根とは屋根形状のひとつで屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根。
棟
神社建築においては、屋根の最頂部にある構造材の棟木(むなぎ)の上に鰹木(かつおぎ)と呼ぶ屋根を押さえる重石の役目を担う水平材が取り付く。
妻
神社建築においては、妻部分の斜め材を囲う破風(はふ)部分の破風板が延長して千木(ちぎ)と呼ぶ斜め材が突出する。
千木の最端部が水平に切断されているものは女神、鉛直に切断されているものは男神を祀ると言う俗説がある。
数寄屋造り
語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者参照)、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。
歴史
数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代である。もとは庭園に面した別棟として造られた小規模 (多くは四畳半以下) な茶室を「数寄屋」と呼んだ。当時は床の間、棚、付書院を備え、座敷を荘厳する書院造が確立され、身分の序列や格式を維持する役割も持つような時代であったが、茶人たちは格式ばった意匠や豪華な装飾をきらった。そこで好まれたのが軽妙な数寄屋だったのである。
江戸時代以降は茶室から住宅などへとその幅を広げていった。現代では、料亭や住宅でも数奇屋建築にならったものが造られる。
なお、建築史では、書院造の系統であり独自の様式ではないとして、「数寄屋風書院」と呼ぶことが多い。
数寄屋独特の意匠
数寄屋建築は、書院建築が重んじた格式・様式を極力排しているのが特徴である。虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、シンプルながらも洗練された意匠となっている。以下に、数寄屋に特徴的な要素を挙げる。
長押の省略
丸みを残した面皮柱を用い、長押は省くことが多い。
床の間
書院造のそれと比べると小規模で質素である。
深い庇
庇を長めに造ることで、内部空間に深い陰翳と静謐をもたらす。
代表的な遺構
待庵 (京都府・妙喜庵)……千利休作
密庵 (京都府・龍光院)
如庵 (愛知県)
桂離宮新書院
修学院離宮
曼珠院書院
臨春閣(三渓園)
角屋
その他
俗に、和風の邸宅で費用を惜しまずに建てた立派な建物のことを「数寄屋造り」「数寄屋普請」とも言う。
谷崎潤一郎は数寄屋を好んだ。彼の自邸にも数寄屋風が採り入れられ、「陰翳礼讃」では数寄屋の美学が語られている。
日本の民家 合掌造り
概要
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の角度の急な切妻屋根が大きな特徴となっている。屋根の形が合掌した時の手の形に似ているところから、合掌造りと言われるようになったと伝わっている。
合掌造りの小屋組は、白川郷や五箇山のものが有名になっているが、本来は日本の民家に広く見られた構造である。茅葺きの屋根では、雨仕舞いのために急傾斜の屋根にする必要があり、合掌造が有利である。また、豪雪地帯の積雪時の屋根荷重を支えるのにも都合がよい。
書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から『人』の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造である。
合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
特に、白川郷・五箇山の集落にある合掌造り建築群は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
関連項目
白川郷・五箇山の合掌造り集落
外部リンク
五箇山・白川郷の合掌造り
建築様式 茅葺
材料
茅という植物はない。茅とは、アシ、ススキ、チガヤなどの長い繊維の葉や茎を持つ植物の総称である。
歴史
太平洋戦争以前では、日本各地で一般的に観られた屋根であるが、戦後、農村の人口が変化し共同作業として行う葺き替えが実施できなくなったこと、規制等により新たに建造することが簡便ではないこと。
また、スギなどの木材価格が一時的に高騰し茅場が人工林化したことなどから急激に姿を消した。現在でも、ごく希に農村で見かけることもあるが、葺き替えができずにトタン屋根をかぶせたものなどがほとんどであり、屋外博物館や商業施設以外で自然形態のまま存在するものは珍しい。
海外では(西ヨーロッパ、ドイツ・デンマーク・オランダ等)、一般民家等は少なくなってはいるが富裕層では裕福の象徴的な意味もあり、新築で建てるなど比較的数が多く、日本の職人も研修などで訪れたりもする。
葺き替え
場所や使用状態にもよるが30年ごとに葺き替えを行うことが多いようである。ただし、昔の建物は囲炉裏による薫蒸作用により防虫効果が働いていたこともあり、そのような効果が見込まれない博物館や商業施設では、茅葺の劣化が著しく進行する場合もある。
材料の確保については、元来は村落周辺に茅場と呼ばれるススキ草原があった。これは、家畜の餌などとして定期的に刈り入れを行うことで、遷移の進行を止めてススキ草原を維持していたものである。しかし、第二次大戦以降の生活の変化によって利用されなくなったことから、ほとんどが失われた。しかし、その後の減反や離農により茅場と化している場所も増えていることから、以前よりは苦労しなくなっているという。職人の確保も、若手を育成している建築会社が出現するなど、減少に歯止めが掛かろうとしている。
茅の屋根の縁は見た目を美しくするため切りそろえる場合が多いが、切りそろえないほうが水はけはいい、とも言われている。
茅葺の建物が集中してある場所
白川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県)― 世界遺産(文化遺産)
大内宿(福島県南会津郡下郷町)
かやぶきの里・北村(京都府南丹市美山町)
江戸東京たてもの園(東京都小金井市)
日本民家園(神奈川県川崎市)
三州足助屋敷(愛知県豊田市足助町)
茅葺の施設
吉村医院(愛知県岡崎市)
関連項目
合掌造り
苫屋
建築様式 合掌造り
概要
合掌造りは、茅葺(かやぶき)の角度の急な切妻屋根が大きな特徴となっている。屋根の形が合掌した時の手の形に似ているところから、合掌造りと言われるようになったと伝わっている。
合掌造りの小屋組は、白川郷や五箇山のものが有名になっているが、本来は日本の民家に広く見られた構造である。茅葺きの屋根では、雨仕舞いのために急傾斜の屋根にする必要があり、合掌造が有利である。また、豪雪地帯の積雪時の屋根荷重を支えるのにも都合がよい。
書院造や数寄屋造りなど上層の住宅で使われる小屋組(和小屋)と比べ、構造に大きな違いがある。すなわち、和小屋が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えるのに対し、合掌造りでは両側から『人』の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差する形状となっている。これは一般に扠首(さす)構造と呼ばれ、トラス構造であり、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で、木材の性質上、優れた構造である。
合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生まれる。江戸時代中期頃、養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくい合掌造りであるが、3層・4層という具合に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられている。
茅葺屋根の葺き替えは、30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがある。このための補修作業は年に1・2度必要となる。茅葺屋根の葺き替えや補修作業では、地域住民の働力提供による共同作業で行われる。この仕組みを結(ゆい)と呼んでいる。
特に、白川郷・五箇山の集落にある合掌造り建築群は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
関連項目
白川郷・五箇山の合掌造り集落
外部リンク
五箇山・白川郷の合掌造り
日本の住宅
日本住宅史
日本の住宅は近年までほとんどが木造(木造軸組構法)で、畳のある部屋(和室)が中心であったが、第二次世界大戦後の急速な生活スタイルの変化により、現在は中・高層建築ではほとんどが鉄筋コンクリート造、低層・戸建ではプレハブ工法等の住宅も多くなり、和室を造らない場合も多くなってきている。
原始・古代(竪穴住居、高床式住居)
平安時代には貴族の住まいとして寝殿造が成立した。庶民の住居は相変わらず竪穴住居が主流であった。
鎌倉時代の武士の住まいは武家造と呼ばれることもあるが、今日では寝殿造を簡略化したものと考えられている。
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代である。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたが、いわゆる東山文化の時代、応仁の乱前後の足利義政の邸宅になると、初期の書院造と呼ばれるものになる。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになった。
中世の絵巻物などに見る庶民の町屋はまだ非常に簡素なものが多かった。
織田信長による天下統一は、住宅史上も画期になったと考えられる。信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城などにおいて身分の序列を著し権力者の威厳を示すため、書院造が完成した。家臣は城下町に住むよう命じられ、狩野永徳の洛中洛外図屏風などから、都市建築(町屋、武家屋敷など)も発達してきたことが伺える。
上層の住まいとして書院造が定着し、江戸時代以降、茶室の要素を採り入れたいわゆる数寄屋造りの住宅も造られるようになった。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、関西の住宅の方が質が高く、次第に関東にも広まっていった。近世初期、関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かった。工法も掘立柱を立て、茅で屋根や壁を葺くものであった。
農家も次第に発展し、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝のための部屋が造られていった。工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わり、高い技能を持った職人が建設するものになった。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代後期以降、「田の字型」の間取りが広く普及していった。この間取りは結婚、葬儀など人が集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせてふすまを開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものは、「田の字型」のタイプが多い。
江戸時代には贅沢を諌めるため、床の間や瓦葺屋根などは制限されていた。武士の住まいでは、式台、床の間が許され、農家でも名主クラスだと床の間が許される、といったように身分による統制が行われていた。ただ、防火のため瓦葺屋根が奨励されたり、義務付けられた町もある。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになった。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していった。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅であった。
大正時代以降、サラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られた。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。
第二次世界大戦後、住宅難の中で公団住宅など、大量供給型の住宅が造られた。ダイニング・キッチンなどが新たに工夫された。
かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったが、今日では洋風の住まいが普及し、新築の家は、和室と共に床の間のある例も減少してきている。また、かつての住宅は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致のものが多かったが、現在は職住分離の方が主流になっている。
住宅の種類
日本の住宅の種類には一戸建て、集合住宅(マンション、アパート、団地、公団住宅)、長屋、文化住宅などがある。
住宅の集まりを指して集落、部落、地区などと言う。
古くからの習慣で、住居が建っている場所や住人の職業などで区別して商家、町家、農家などとも言う。
9)日本各地の伝統工芸品 九州
博多織(織物、1976年通商産業大臣指定品)
久留米絣(織物、1976年通商産業大臣指定品)
小石原焼(陶磁器、通商産業大臣指定品)
上野焼(陶磁器、1988年通商産業大臣指定品)
八女福島仏壇(仏壇・仏具、1977年通商産業大臣指定品)
博多人形(人形、1976年通商産業大臣指定品)
八女提灯(その他工芸品、2001年経済産業大臣指定品)※経済産業省として初の指定
佐賀県
伊万里焼・有田焼(陶磁器、1977年経済産業大臣指定品)
唐津焼(陶磁器、1988年経済産業大臣指定品)
長崎県
三川内焼(陶磁器、1978年経済産業大臣指定品)
波佐見焼(陶磁器、1978年経済産業大臣指定品)
熊本県
小代焼(陶磁器、2003年経済産業大臣指定品)
天草陶磁器(陶磁器、2003年経済産業大臣指定品)
肥後象がん(金工品、2003年経済産業大臣指定品)
大分県
別府竹細工(竹工品、1979年経済産業大臣指定品)
小鹿田焼 (陶磁器)
宮崎県
本場大島紬(織物、1975年経済産業大臣指定品)
都城大弓(竹工品、1994年経済産業大臣指定品)
鹿児島県
本場大島紬(織物、1975年経済産業大臣指定品)
薩摩焼(陶磁器、2002年経済産業大臣指定品)
川辺仏壇(仏壇・仏具、1975年経済産業大臣指定品)
沖縄県
久米島紬(織物、1975年経済産業大臣指定品)
宮古上布(織物、1975年経済産業大臣指定品)
読谷山花織(織物、1976年経済産業大臣指定品)
読谷山ミンサー(織物、1976年経済産業大臣指定品) → ミンサー織り
琉球絣(織物、1983年経済産業大臣指定品)
首里織(織物、1983年経済産業大臣指定品)
与那国織(織物、1987年経済産業大臣指定品)
喜如嘉の芭蕉布(織物、1988年経済産業大臣指定品)
八重山ミンサー(織物、1989年経済産業大臣指定品)
八重山上布(織物、1989年経済産業大臣指定品)
琉球びんがた(染色品、1984年経済産業大臣指定品)
壺屋焼(陶磁器、1976年経済産業大臣指定品)
琉球漆器(漆器、1986年経済産業大臣指定品)
8)日本各地の伝統工芸品 四国
阿波正藍しじら織(織物、1978年経済産業大臣指定品)
大谷焼(陶磁器、2003年経済産業大臣指定品)
阿波和紙(和紙、1976年経済産業大臣指定品)
香川県
香川漆器(漆器、1976年経済産業大臣指定品)
丸亀うちわ(その他工芸品、1997年経済産業大臣指定品)
愛媛県
砥部焼(陶磁器、1976年経済産業大臣指定品)
大洲和紙(和紙、1977年経済産業大臣指定品)
高知県
土佐刃物(金工品、1998年経済産業大臣指定品)
土佐和紙(和紙、1976年経済産業大臣指定品)
7)日本各地の伝統工芸品 中国
弓浜絣(織物、1975年経済産業大臣指定品)
因州和紙(和紙、経済産業大臣指定品)
出雲石燈ろう(石工品・貴石細工、1976年経済産業大臣指定品)
島根県
石見焼(陶磁器、1994年経済産業大臣指定品)
石州和紙(和紙、1989年経済産業大臣指定品)
雲州そろばん(文具、1985年経済産業大臣指定品)
出雲石燈ろう(石工品・貴石細工、1976年経済産業大臣指定品)
岡山県
備前焼(陶磁器、1982年経済産業大臣指定品)
勝山竹細工(竹工品、1979年経済産業大臣指定品)
広島県
宮島細工(木工品、1982年経済産業大臣指定品)
広島仏壇(仏壇・仏具、1978年経済産業大臣指定品)
熊野筆(文具、1975年経済産業大臣指定品)
福山琴(その他工芸品、1985年経済産業大臣指定品)
山口県
萩焼(陶磁器、2002年経済産業大臣指定品)
大内塗(漆器、1989年経済産業大臣指定品)
赤間硯(文具、1976年経済産業大臣指定品)
6)日本各地の伝統工芸品 関西
近江上布(織物、1977年経済産業大臣指定品)
信楽焼(陶磁器、1975年経済産業大臣指定品)
彦根仏壇(仏壇・仏具、1975年経済産業大臣指定品)
京都府
西陣織(織物、1976年経済産業大臣指定品)
京鹿の子絞(染色品、1976年経済産業大臣指定品)
京友禅(染色品、1976年経済産業大臣指定品)
京小紋(染色品、1976年経済産業大臣指定品)
京黒紋付染(染色品、1979年経済産業大臣指定品)
京繍(その他繊維製品、1976年経済産業大臣指定品)
京くみひも(その他繊維製品、1976年経済産業大臣指定品)
京焼・清水焼(陶磁器、1977年経済産業大臣指定品)
京漆器(漆器、1976年経済産業大臣指定品)
京指物(木工品、1976年経済産業大臣指定品)
京仏壇(仏壇・仏具、1976年経済産業大臣指定品)
京仏具(仏壇・仏具、1976年経済産業大臣指定品)
京石工芸品(石工品・貴石細工、1982年経済産業大臣指定品)
京人形(人形、1986年経済産業大臣指定品)
京扇子(その他工芸品、1977年経済産業大臣指定品)
京うちわ(その他工芸品、1977年経済産業大臣指定品)
京表具(その他工芸品、1997年経済産業大臣指定品)
大阪府
大阪欄間(木工品、1975年経済産業大臣指定品)
大阪唐木指物(木工品、1977年経済産業大臣指定品)
大阪泉州桐箪笥(木工品、1989年経済産業大臣指定品)
大阪金剛簾(竹工品、1996年経済産業大臣指定品)
堺打刃物(金工品、1982年経済産業大臣指定品)
大阪浪華錫器(金工品、1988年経済産業大臣指定品)
大阪仏壇(仏壇・仏具、経済産業大臣指定品)
兵庫県
丹波立杭焼(陶磁器、1978年経済産業大臣指定品)
出石焼(陶磁器、経済産業大臣指定品)
豊岡杞柳細工(木工品、1992年経済産業大臣指定品)
播州三木打刃物(金工品、1996年経済産業大臣指定品)
播州そろばん(文具、1976年経済産業大臣指定品)
播州毛鉤(その他工芸品、1987年経済産業大臣指定品)
奈良県
高山茶筌(竹工品、経済産業大臣指定品)
奈良筆(文具、1977年経済産業大臣指定品)
和歌山県
紀州漆器(漆器、経済産業大臣指定品)
紀州箪笥(木工品、1987年経済産業大臣指定品)